スタッフブログ

2024/03/07 14:57

こんにちは!東京繁田園茶舗です。

2/14(水)に始まったプロジェクトもそろそろ折り返し。

引き続き、多くの応援をいただいており、本当にどうもありがとうございます。

さて、3/14(木)のホワイトデーは、東京繁田園茶舗の創業記念日。今年で開業77年になります。

そこで今回は、開業77周年とJAPAN EXPO PARIS出展を記念して、創業者・繁田弘蔵の書いた『東京繁田園物語』(1995年刊)を、noteにて復刻することにいたしました。

ちょっぴり歴史的なお話にはなりますが、約80年前の狭山やお茶づくりの様子を垣間見ることができる本です。昨日公開した第一話の中身を、こちらでも少しご紹介いたします。

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私が生まれ育ったのは埼玉県入間市で、ここは全国にその名を知られる「狭山茶」の主要な生産地です。今でこそ宅地化の波に押されて茶畑はめっきり少なくなってしまいまし たが、一昔前まではあっちにもこっちにも茶畑が広がり、また製茶工場もほうぼうに建っていました。

画像入間市 金子台の茶畑と富士山(入間市公式HPより引用)

私の生家も茶業を営んでいました。
繁田家の茶業の歴史は古く、製茶を始めたのは繁田家十代当主繁田武兵衛満該の時と繁田家の年譜に記されています。 満該が1812年(文化12年)に茶業を始め、それを私の祖父である十二代当主繁田満義が引き継ぎ、明治8年に「狭山製茶会社」を創立しまし た。満義は製茶事業に大変熱心でアメリカにまでお茶を輸出し、1893年には米国シカゴ博、1900年にはパリ万国博にそれぞれ出品して、大賞牌まで受けています。

画像狭山会社 輸出ラベル(入間市博物館HPより引用)

満義が興した「狭山製茶会社」は次に十三代当主繁田武平(号翠軒) へと受け継がれ、それを武平の実弟で私の父である繁田金六(号百鑒済)が実質的にきりもりしていました。私はそのような中で繁田一族の一人として生まれ、育ったのです。

私の祖父・繁田満義は若い頃から大変やり手だったらしく、15歳の時には名主見習いを、 17歳の時には武州挾山(現在の埼玉県入間郡)の四十八か村の総代名主になったほどの人物です。満義は茶業の他にも農園や銀行、醬油会社や保育園などを興し、養子に行った 長男と五男を除く息子たちにそれぞれの事業を引き継がせました。

画像繁田武平満義(入間市博物館HPより引用)

父が茶業部を実質的にきりもり

満義には全部で子供が8人いました。 長男・亀太郎は母親の実家の発智家に養子に迎えられました。ここは高麗郡笠幡村(現川越市霞ヶ関)で二十代以上も続く有力者の家柄で、 一人娘を繁田家に嫁にもらう代わりに、生まれた第一子の男児は養子として発智家に返す という約束事があったのです。亀太郎は名を発智庄平と改め、自分の屋敷内にゴルフ場をつくって、皇族や外交官専門の「霞ヶ関カンツリー倶楽部」を設立しました。明治、大正期の実業界の中心人物の一人です。

長男が養子に出たために、 繁田家を継いだのは二男の繁田武平(号翠軒)でした。17歳の若さで家督を相続した武平は「狭山製茶会社」を家計の基礎に据えながら、他にも豊岡町長を25年間務め、また黒須銀行を設立、豊岡大学を創設するなど、繁田一族のトップにあるだけでなく、実業家としても政治家としても大いに力を振るいました。

画像繁田組を束ねた繁田家十三代当主 繁田武平翠軒

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よろしければ、続きは下記にてお読みください。本日夜に、第二話も更新予定です!

https://note.com/handa_minoru/n/n5ac5e65ec6aa

引き続き、どうぞよろしくお願いします!